実践ガイド 全6回・第6回(最終回) / インドで日本ブランドを売る
人を育てる——労働法典・採用・販売員教育で「日本の売場」を再現する
— 店舗の価値は、最後は販売員で決まる。2025年11月施行の4つの労働法典、採用と定着、そして「日本の接客」を仕組みにして伝える教育設計 —
インド政府労働雇用省の公表資料——賃金法典(Code on Wages, 2019)・労使関係法典(Industrial Relations Code, 2020)・社会保障法典(Code on Social Security, 2020)・労働安全衛生・労働条件法典(Occupational Safety, Health and Working Conditions Code, 2020)の施行(2025年11月21日)および中央規則案(2025年12月30日公表)・各州の店舗・事業所法・従業員積立基金機構(EPFO)、従業員国家保険公社(ESIC)の公表資料・国家技能開発公社(NSDC)および小売業技能評議会(RASCI)の公表資料ほかをもとに編集。労働法典は施行済みだが、中央・州の細則は整備途上の部分がある。雇用条件の確定にあたっては、各州の最新の規則と現地の労務専門家の意見を確認されたい。
シリーズ最終回です。第1回で勝機と参入ルートを、第2回で商標を、第3回でJIIPAを通じたパートナー探しを、第4回で税と価格を、第5回で出店の制度を確認してきました。
最後に残るのが「人」です。インドの売場で「日本ブランドらしさ」を感じてもらえるかどうかは、販売員の一言、売場の整い方、困ったときの対応で決まります。第6回は、労働法の基本、採用と定着、そして販売員教育の設計を整理します。
一言でまとめると:インドでは2025年11月21日に4つの労働法典(賃金・労使関係・社会保障・労働安全衛生)が施行され、29の中央労働法が統合された。全従業員への雇用通知書の交付、「賃金」の統一定義(基本給等が報酬総額の50%を下回る場合は差額を算入)、有期雇用者の退職一時金(グラチュイティ)の受給要件が1年に短縮などの変化があり、店舗の労働時間・休日などは引き続き各州の店舗・事業所法が規律する。社会保険は従業員積立基金(EPF)と従業員国家保険(ESI)が中心。販売員は離職が多く、日本式の接客を「心がけ」ではなく「仕組み」として伝えることが定着と品質の両方に効く。具体的には、①なぜそうするのかを説明する、②多言語の動画マニュアル、③30日間の立ち上げ研修とロールプレイ、④売上と行動の両方を評価する報酬設計、⑤現地の店長を育て、日本を体験させる。国の小売技能評議会(RASCI)の資格基準も研修設計の参考になる。
✏️ 編集後記
最終回は、制度よりも現場の比重を大きくした。労働法典は2025年11月21日に施行されたが、中央規則案の公表が同年12月で、州の規則の整備状況には差があるため、最低賃金額や労働時間の上限などの具体的な数値は記載していない。販売員教育の設計(5つの柱・30日間プログラム・評価の二本立て)は、筆者がインドの自社拠点でスタッフの育成に携わってきた経験に基づく一つのモデルであり、業種・店舗規模に応じて調整されたい。
この記事の内容
① 先に答え——「心がけ」ではなく「仕組み」で伝える
② 4つの労働法典——何が変わったか
③ 店舗運営に関わる主な労務ルール
④ 採用——誰を、どこで、どう選ぶか
⑤ 販売員教育の設計——30日間の立ち上げプログラム
⑥ インドの顧客を理解する
⑦ 定着させる——評価・報酬・キャリア
⑧ 「日本ブランドらしさ」を守る仕組み
⑨ シリーズのまとめ——6回の意思決定チェックリスト
① 先に答え——「心がけ」ではなく「仕組み」で伝える
— 「お辞儀の角度」より「なぜ待たせてはいけないのか」 —
前職の繊維商社時代を含めて34年、2002年の起業からは25年、インドの現地スタッフとともに働いてきた経験から言えるのは、インドのスタッフは「理由」が分かれば驚くほど早く吸収し、自分の言葉で工夫するということです。逆に、日本のやり方を理由なく「こうしなさい」と押しつけると、形だけが残り、担当者が辞めると消えてしまいます。
日本の接客の本質——お客様を待たせない、売場を常に整える、商品の価値を正確に伝える、約束を守る——を、理由・手順・確認方法に分解して伝えることが、インドの売場で「日本ブランドらしさ」を再現する近道です。
② 4つの労働法典——何が変わったか
— 2025年11月21日施行。細則は整備途上 —
| 法典 | 主な内容 | 店舗運営への影響 |
|---|---|---|
| 賃金法典(Code on Wages, 2019) | 最低賃金・賃金支払・賞与・同一賃金に関する4法を統合。全国の下限賃金(フロアウェッジ)の設定 | 州ごとの最低賃金に加え、国の下限を下回れない。「賃金」の統一定義により、基本給等が報酬総額の50%を下回る場合は差額が賃金に算入され、社会保険料・退職一時金の計算に影響 |
| 労使関係法典(Industrial Relations Code, 2020) | 就業規則、労働組合、解雇・整理、有期雇用 | 有期雇用が制度として明確化。一定規模以上は就業規則(スタンディングオーダー)の整備 |
| 社会保障法典(Code on Social Security, 2020) | EPF・ESI・退職一時金・出産給付などを統合。ギグ・プラットフォーム労働者も対象に | 有期雇用者の退職一時金は1年の勤務で受給可能に(通常の従業員は5年) |
| 労働安全衛生・労働条件法典(OSH Code, 2020) | 安全衛生、労働時間、雇用通知書の交付義務、女性の夜間勤務(同意と安全措置を条件に可) | 全従業員に雇用通知書(アポイントメントレター)を交付 |
⚠ 州ごとの細則を確認する:労働法典は施行されましたが、中央政府の規則案は2025年12月に公表され、州ごとの規則も整備途上の部分があります。最低賃金額・労働時間の上限・各種の届出様式は州によって異なるため、出店する州の最新の規則を必ず確認してください。
③ 店舗運営に関わる主な労務ルール
| 項目 | 概要 |
|---|---|
| 店舗・事業所法(州法) | 店舗の営業時間・従業員の労働時間・週休・休暇・女性の夜間勤務などを州ごとに規定。出店時に登録(第5回) |
| 最低賃金 | 州・地域・技能区分ごとに設定され、物価に連動して定期的に改定 |
| 従業員積立基金(EPF) | 一定規模以上の事業所が対象。使用者・従業員がそれぞれ賃金の12%を拠出するのが基本 |
| 従業員国家保険(ESI) | 一定規模以上の事業所で、一定額以下の賃金の従業員が対象。医療・傷病・出産などを保障 |
| 退職一時金(グラチュイティ) | 通常は継続5年以上の勤務で受給。有期雇用者は1年 |
| 賞与(ボーナス) | 一定の賃金水準以下の従業員に対し、法定の範囲で支給義務 |
| 職場のハラスメント防止 | 職場における女性へのセクシュアル・ハラスメント防止法(POSH法、2013年)に基づき、従業員10名以上の事業所は社内苦情委員会(ICC)の設置が必要 |
④ 採用——誰を、どこで、どう選ぶか
— 店長は現地の人材で。日本人は立ち上げと仕組みづくりに —
- 店長・エリアマネージャーは現地の人材——言語・顧客理解・スタッフ管理の面で、現地の経験者が欠かせない。日本人は立ち上げ期に仕組みを作り、徐々に手を離すのが理想
- 言語——英語に加え、ヒンディー語や出店地域の言語(タミル語、カンナダ語、マラーティー語など)を話せる人材を組み合わせる
- 採用チャネル——求人サイト(Naukri、Apna など)、LinkedIn、スタッフからの紹介、小売・ホスピタリティ系の職業訓練機関
- 選考で見るもの——経験よりも「人に関心があるか」「整理整頓ができるか」「学ぶ姿勢があるか」。ロールプレイ形式の面接が有効
- ホテル・航空業界の経験者——接客の基礎があり、日本式のサービスへの理解が早いことが多い
⑤ 販売員教育の設計——30日間の立ち上げプログラム
— 教える内容を「5つの柱」に分ける —
| 柱 | 教える内容 | 伝え方の工夫 |
|---|---|---|
| 1. ブランドと商品 | ブランドの歴史・こだわり、素材・産地・機能、日本での使われ方 | 「なぜこの値段なのか」を自分の言葉で説明できるまで。商品を実際に使ってもらう |
| 2. 接客 | 迎え入れ、声かけのタイミング、試着・提案、会計、見送り | ロールプレイを毎日。良い例・悪い例を動画で見せる |
| 3. 売場づくり | 整理整頓(5S)、陳列・ディスプレイ(VMD)、在庫補充、清掃 | 開店前・閉店後のチェックリストと写真による基準 |
| 4. 業務 | POS・在庫管理、返品・交換、UPI決済、ECとの連携(取り置き・店頭受取) | システム画面を使った実習 |
| 5. 困ったとき | クレーム対応、値引き交渉への対応(MRP・定価の説明)、エスカレーションの基準 | 「自分で判断してよい範囲」を明確にする |
| 期間 | 内容 |
|---|---|
| 1〜5日目 | ブランド・商品研修、売場の基準、業務システムの基本 |
| 6〜15日目 | 先輩とペアで売場に立つ(シャドーイング)、毎日のロールプレイ |
| 16〜25日目 | 単独で接客、毎日の振り返り(良かった点・改善点) |
| 26〜30日目 | 確認テスト(商品知識・接客ロールプレイ・売場チェック)、店長との面談 |
マニュアルは文章よりも短い動画が効果的です。英語・ヒンディー語・地域言語の字幕を付け、スマホでいつでも見られるようにしておくと、新人の立ち上がりが早くなり、離職による品質低下も防げます。
インドには、国家技能開発公社(NSDC)のもとで小売業の職務基準と資格を定める小売業技能評議会(RASCI:Retailers Association’s Skill Council of India)があります。販売員・店長などの職務基準は、研修カリキュラムを作る際の参考になります。
⑥ インドの顧客を理解する
— 日本の常識をいったん脇に置く —
- 家族や友人と来店し、皆で相談して決めることが多い。同伴者への声かけも大切
- 値引き交渉は珍しくない。MRP・定価の考え方、セール時期、会員特典などを丁寧に説明できるようにする
- 祝祭日と結婚式シーズン(ディワリなど)は最大の商機。贈答需要に応える提案とラッピング
- WhatsAppでのフォローが一般的。入荷連絡・取り置き・サイズ確認などに活用(顧客の同意を得たうえで)
- 地域差が大きい。北と南、大都市と地方都市で、好みの色・サイズ・価格感が異なる
⑦ 定着させる——評価・報酬・キャリア
— 辞めない理由をつくる —
| 施策 | 内容 |
|---|---|
| 評価の二本立て | 売上(個人・チーム)と行動(売場維持・接客品質・チェックリストの遵守)の両方で評価。売上だけだと押し売りや売場の乱れにつながる |
| インセンティブ | 月次の売上歩合に加え、ミステリーショッパー(覆面調査)の評価や顧客の口コミに連動した表彰 |
| キャリアの見える化 | 販売員 → シニア販売員 → 副店長 → 店長、の昇進基準を明示。研修担当(トレーナー)という役割も用意 |
| 日本を体験する機会 | 優秀なスタッフを日本の本店・工場・産地への研修に招く。ブランドの理解と誇りが深まり、帰国後に周囲へ伝える役割を担う |
| 働きやすさ | 通勤の安全(特に女性の遅番)、休憩室、食事、柔軟なシフト |
⑧ 「日本ブランドらしさ」を守る仕組み
— 人が入れ替わっても品質が残るように —
- ブランドブック——ブランドの考え方、ロゴ・色・写真の使い方、接客の言葉づかいを1冊にまとめ、英語・現地語で用意
- 商品情報の一元管理——商品画像・素材・サイズ・説明文を一か所で管理し、店舗・EC・SNSで同じ情報を使う。KIRIKOM PLUSのような商品情報・画像管理のクラウドが役立つ
- 多言語の商品説明——英語・ヒンディー語の説明文、試着時のサイズ換算表
- 店舗間の比較と共有——売場の写真・好事例をチャットで共有し、良いやり方を全店に広げる
⑨ シリーズのまとめ——6回の意思決定チェックリスト
「インドで日本ブランドを売る」6回の総まとめ
☐ 第1回:インドで売る商品と参入ルート(A〜E)を決めた
☐ 第2回:インドで商標を出願し、代理店契約に商標条項を入れた
☐ 第3回:JIIPA等を通じて、パートナー・専門家・調達先の候補とつながった
☐ 第4回:関税・GST(2,500ルピーの境目)・MRP表示を踏まえて価格帯を設計した
☐ 第5回:出資比率・30%現地調達・法人設立・許認可・物件の計画を立てた
☐ 第6回:労働法典に沿った雇用条件と、30日間の販売員教育プログラムを用意した
インドは、準備した者にきちんと応えてくれる市場です。日本のブランドが持つ品質への誠実さは、インドの消費者にも必ず伝わります。インフォアイは、インドと日本の2拠点で、その一歩をお手伝いします。
Series Complete — 全6回
「インドで日本ブランドを売る」実践ガイド 全6回——勝機を見極め、商標を守り、仲間を見つけ、価格を決め、店を開き、人を育てるまで
6回を通じて、日本ブランドの商品をインドで売るために必要な意思決定を順番に整理してきました。インドは「難しい市場」と言われますが、実際には「先に決めておくべきことが多い市場」です。商標・価格・資本・人——ひとつずつ手を打てば、道筋は見えてきます。
主要引用・参照元一覧
- インド政府労働雇用省「労働法典の施行に関する通知」(2025年11月21日施行)および中央規則案(2025年12月30日公表)
- 賃金法典(The Code on Wages, 2019)——最低賃金、フロアウェッジ、「賃金」の定義(第2条(y))
- 労使関係法典(The Industrial Relations Code, 2020)——有期雇用、就業規則
- 社会保障法典(The Code on Social Security, 2020)——EPF・ESI・退職一時金(有期雇用者の1年要件)
- 労働安全衛生・労働条件法典(The Occupational Safety, Health and Working Conditions Code, 2020)——雇用通知書、女性の夜間勤務
- 各州の店舗・事業所法(Shops and Establishments Act)
- 職場における女性へのセクシュアル・ハラスメント(防止・禁止・救済)法(2013年)——社内苦情委員会
- 従業員積立基金機構(EPFO)、従業員国家保険公社(ESIC)公表資料
- 国家技能開発公社(NSDC)、小売業技能評議会(Retailers Association’s Skill Council of India:RASCI)公表資料
- 本シリーズ第1回〜第5回
※本稿は公開情報の要約・整理を目的とした実務ガイドであり、法務・税務・知的財産・労務・投資の助言を意図するものではありません。法令・規則・税率・補助制度は執筆時点(2026年10月)で確認できた各機関の公表資料および専門家の公表解説に基づきます。制度は頻繁に改定されますので、実際の出願・投資・出店・雇用にあたっては最新の一次情報をご確認のうえ、インドの弁護士・勅許会計士(CA)・商標代理人、JETRO・JIIPA等の支援機関にご相談ください。
インフォアイは2002年の創業から25年、インド・ジャイプールに自社拠点を置き、日印国際産業振興協会(JIIPA)の理事として日印のビジネス交流に関わってきました。市場調査、パートナー探し、多言語(英語・ヒンディー語)サイト構築、展示会・商談支援まで、インド進出の実務をご相談いただけます。
繊維商社にてインド生産を中心とした業務に12年間従事。現地工場との生産管理や品質管理、繊維ビジネスの実務経験を積む。その後、2002年にインドと日本を拠点とする株式会社インフォアイを設立(2026年で25年目)。創業当初は売上をつくるためにアパレルのOEM受注を手がけ、インドでの生産を続けてきた。前職を含めたインドでの繊維生産・生産管理の経験は34年。繊維業界向けのクラウドソリューション開発や画像加工サービス「キリコム」を中心に事業を展開。現在は繊維業向けクラウド「KIRIKOM PLUS」など、繊維業界の業務効率化とデジタル化を目的としたソリューションを日本・海外の企業に提供している。
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